ポーランド語初級学習 ニューエクスプレスが続かない私たちへ

ニューエクスプレスが続かない私たちへ

語学の勉強の上で、良い参考書があるかというのは非常に重要な問題だ。話す練習などは別に必要だとしても、まずはたくさん文章を読めば良いのだが、マイナーな言語は参考書が限られてきて、自分が読める文章を探すところからになる。

自分は英語学習において、NHKの基礎英語や攻略英語リスニングにお世話になってきたのだが、他の言語でそういった至れり尽くせりの教材はないのである。

 

ポーランド語の初級をある程度知った、かつ文法だけの勉強のやる気が続かない人にちょうど良いのではないかという文章にたまたま巡り会えたので、私のような不精者のために紹介したいと思い立ちました。

 

私自身は、ポーランド語の初級文法をニューエクスプレスで勉強し(大学で週一コマの授業を受けた)、11課まではやる気が継続、テストも受けたが後期に離脱。

今年前期にポーランド語講読があるようなので、様子を見に行ってみたら受講者が二人でありもう一人の手前やめづらく、やってみたら案外読めて嬉しくなった、という次第です。

以下に紹介するおすすめのテキストは自分で探し出してきたわけではなく、講読を担当される先生のチョイスです。

 

私はロシア語を一通り勉強して文章も読んできているので、そのための読みやすさもあると思います。でも、ロシア語をやっていなくても、ニューエクスプレス放棄者でも、下記の辞書を使い、類推しながらニューエクスプレスで文法事項を探すという方法でも時間をかければ読めると思います。文法事項を勉強して先に全て頭に入れるより、わからない文章に対してこの単語はこういう意味だろうから(例えば英語で言う分詞「〜しながら」の意味かな、など)文法事項ではこのあたりかなと教科書の中から探すと言う方法が、現実的なのではないかと思います。

そっちの方がパズルみたいで面白いな、と今回思いました。

辞書とおすすめテキスト

ポーランド語に戻ります。

辞書は、「白水社ポーランド語辞典」一択だそう。

2023年6月に新装版が出たらしいのですが、ウクライナ侵攻でウクライナ語や東欧の言語を学ぶ機運が高まったからでしょうか

カタカナ表記があって便利だし、初学者にありがたい見出し語で(引いてみたら実感するはず)良い辞書です。

 

私が授業で読んで、面白かった(おすすめしたい)テキストが、歴史家(仮) Marcin Kula による、Historia w teraźniejszości, teraźniejszość w historii, Gdańsk 2022. の「あとがきにかえて」です。

タイトルは「現在の中の歴史、歴史の中の現在」です。タイトルからしても、アフォリズムが好きそうな著者。

 

「あとがきに代えて」Zamiast wstępu から読みました。授業では今後、本文の一部も講読していく予定。

「あとがきに代えて」は小噺的な一人称の語りの経験談の寄せ集めになっており、状況を想像しつつ読めば読みやすいと思います。ただし、一段落目が口語的で難しかったので、二段落目から読むといいかと。

 

著作権のため、ここで原文と訳を載せるのが難しいようです。(悲しい。)著作者の、マルチン・クーラ先生にメールで連絡してみようと思います。積極的に色々なことをするような

研究者のようなので、お暇があれば返事してくれそう。ポーランド語でやってみます。

 

今のところテキストを入手する気力のある人にしか役立たない情報となってしまいすみません。

もし良いお返事がもらえなかったら、頑張って学習を進めて、著作権の切れている作品の中で読みやすいものを紹介していったりできるようになればな、と思います。

 

悲しき広告 アーレントと広告アルバイトの省察

何かを非難する内容・暗い歴史的話題を含むので、ご注意ください

 

東京にいる頃からある種の広告が嫌いだった。電車内で年中目にする、女性向けの美容の広告だ。理想を掲げるのはやめてくれ、と思っていた。まるで人を分断するように、あなたは遅れていると言う。

今は電車に乗らなくて済むようになった。たまに乗っても関西の電車はもっと牧歌的な気がする。

もしかすると自分が嫌悪したのは、実生活では話題に上らないことが、誰もが黙っている電車内でこれ幸いと提示され、公共空間が犯されているという感覚だったかもしれない。

 

少し前からウェブ上の記事のアルバイトを始めて、日々広告に出会うときに、広告を作っている人のことを考えるようになった。

上から言われて通りに作るというのは、やるのは楽だ。だが自分がやるとわかるように責任感がまるでない。何かを推薦する記事を書いても、それは自分が推薦しているのではない。と言う意識で文章を書いている。自分の文章を読む人がいることは承知しているのだが、その人の人生に関わるという意識はない。

それに気付いてから、とても恐ろしいというかやるせない。何かを宣伝する広告も、作り手の積極的な意志で作られているわけではない。当たり前なのだが、今までそれに本気で気付いていなかった。特に気分を害するような、扇動的な美容系の広告なんかは、もっと悪質な、お金儲けだけを考えている人が作っていると信じたかった。でも本当はきっと違って、それを作る人も、人の気分を害するという意識はなしに作っているのだろう。与えられた仕事をこなしているだけだ。すごくやるせなくなるし辛い。これはアーレントの言う全体主義の起源と、深刻さは違えど本質は同じだ。

 

多くの人が、何かを仕事として与えられれば、自分の価値判断を麻痺させたまま作業ができる。

これは私が広告に関して感じ他ことだが、ナチスの役人だったアイヒマンのことだと思って読み返しても、そのまま当てはまる。

 

一対一ではないから、自分の書いた文章に責任がない。そういう職種がある。自分がアルバイトで関わっているのはもっと一回性のある、満足度は主観的な分野だから、後からあの推薦文は嘘だったとは思われにくい。それでも、本当に心からの推薦を書こうとすると広告の仕事なんてやっていけない。その言葉はどのくらい本気だと自分に問い始めたら何もできない。

自分は真摯に書かれた文章を読みたいし書きたい。文章には限らないけれど。悔しいなあ。もっと私にまっすぐに生きさせてください。

 

東京の重心

山陽本線で京都までの日帰り旅をした。大阪や兵庫の都市部を意識的に見渡すのは初めてのことだった。大阪の高層ビルと広大な河川、三宮から東に変わらない広大な傾斜地。それぞれの駅と街に、色があり風土があるのだろうと思った。けれど私にはそれが見えない。同じ車窓を見ても、向かいの人と同じものを見ていない。それは私がこの地に馴染みがないということだ。

 

一人の人間でも、もちろん馴染みのある場所は時として変わり、車窓の見え方は変わる。子どもの頃はいかなかった場所に行くようになれば、比較もできる。街を個別のものとして認識するようになる。自分はそういった経験が確かにあるが、どうも記憶か更新されるうちに忘れがちになる。その前に書こうと思っていたことがある。それは、東京の重心はどこにあるか?という話だ。

 

重心とは単なる言い回しで、国政や行政の中心地とかいう目に見えるものでないという意味を込めているに過ぎないが、東京都に住んでいる人にこの質問をしたとして、誰も答えが一つに定まらないと感じるのではないかと思う。

 

私は中央線沿線で育ったから、一番初めに知った大きな街といえば新宿だった。もちろん家族でしか出かけない年齢の頃だ。自分のいる国と住んでいる都道府県をそれぞれ知っていても別々に理解している頃だ。小学生低学年くらいだろう。杉並区と周りの区について習ったことはあっても、おそらく新宿が東にあるということも理解していなかった。その頃の休日は、文具やおもちゃ売り場が好きだった荻窪タウンセブンが基本で、時にその「街」、新宿に出かけるものだった。おそらくユニクロかハンズくらいに行っていたのではないかと思う。(吉祥寺がまだ比較的個人商店が多くユニクロもなかった)。家と荻窪はバスでつながっていて、それとも別に遠くに大きな街新宿がある、絶対的に家と一画で結ばれた、中央としてそびえ立つ都会だ(本当の話。今にも忘れそうな感覚だ)。

 

鉄道旅行をする家庭だったため東京駅から帰省や旅行はしていたはずだ。しかし東京駅は、その時だけに使う駅でむしろ西日本に繋がる場所だった。LOCUSTの2号の記事で東京の西限が立川、空白地帯を挟んでそれより西はむしろ東京駅と繋がっている東側に属するという考察があったが(手元に原文がないので後日引用し直すかもしれない)、私の場合東限が新宿だったのだ。東西の理解そのものは別にして。

 

新宿には都庁があるので、社会科で東京の都道府県庁所在地が「東京(新宿)」となっていた時代もあった。でもはっきり言って東京の中心が新宿だとはとても言えない、というか言いたくない。私にしてみれば、新宿には好きな景色もあるが、文化的な蓄積という意味で全く東京を代表できないと思う。

 

中学校の後半で日本文学に惹かれる兆しがあった。夏目漱石を読み始めて、こころに出てくる本郷台の地名が地図を見れば今もある。その後で読んだ武者小路などの小説でも同じ場所が出てくる。これは画期的なことだった。地元の中学だったからさして行動範囲は広くなかった。さすがに東西はわかるし新宿までの中央線の各駅、西武新宿線の杉並の駅と高田馬場は頭に入り、吉祥寺から井の頭線が南へ伸びているのも承知していた。実は長期休みには御茶ノ水の塾へ通っていたことを思い出すが足を延ばす発想はできなかった。本郷、千駄木、染井、そういった確固とした文化の蓄積された場所への憧れは強烈だった。本当に一度も出かけたことがないかどうかは別として、未知の東京だった。

 

高校は文京区の、本郷台地の西の端である。小石川・目白台地というらしい別の台地との間に深い谷があり、そこを有楽町線が通る。その坂を毎日登っていたわけだ。台地を貫く鉄道網がないため、本郷の方へ寄って帰るのは難しかった。依然として憧れは憧れだったが、確実に東京の中心に近づけていると感じていた。いまだに好きな永井荷風の小説でさらに東の下谷やら浅草、果ては向島の粋な、情緒的な雰囲気を知った。東京のイメージが拡大していく。下町を持つ確固たる中心地。いまだに私は上野や本郷が東京の真ん中だと感じている節がある。浅草や今はスカイツリーのあるあたりは下町だ。下町には別にマイナスのイメージがないことは付記するが、土地の起伏がないに等しく、ビルや街路にシンプルで粋な、言うなれば無駄な出費のない雰囲気がある。上野公園を境に緑も多く、とにかく坂と曲がった街路ばかりになる。上野の北側の千駄木からさらに霊園のある染井のほうへの一帯は寺町で、文化人も多く住んだところで住宅も一戸建てが多い。本郷が有名なので伝わりやすいと思うが、街歩きのガイドなどでは谷中・根津・千駄木をまとめて谷根千と言われる懐かしの雰囲気もある。私の憧れの場所であり、菊坂から千駄木夏目漱石旧居地まで高校の社会科の課題で歩いたりもした。東京の中心はあそこだと私は言いたくなる。が、そう思う人はまずいないだろう。静かで主張する街ではないからだ。

 

京都へ出てきて関東以外の出身の人と話すと、周りからした東京のイメージが、大雑把に言えばビルと渋谷であることがわかる。メディアで作られるイメージでは渋谷の立ち居位置が大きい。ほとんど渋谷を使わなかった人の感覚で申し訳ないが、渋谷は駒場の方、高級な松濤やら代官山に繋がるセレブな郊外への玄関だと思っている。繁華街も薄暗さがなさそうだ。渋谷中心の一帯があることは間違いないが、そこが自立していて東京とはまた別のまとまりだと感じる。

 

東京の重心を考えるということだが、結局いくつかのエリアを見ても、ここだという場所があるわけでもない。自分にとってという意味に絞れば、重心は新宿から本郷台の方へ移った。それでもまだ、見えていない景色があるだろう。皇居や国会議事堂のあたり、赤坂のあたりは先日意識的に歩いてみたが、新しさを感じた。メトロしかないために地上の街並みはどこか落ち着いていて、代わりに自動車道路が席巻している。皇居も遠くから見ると堀と森の自然景観だ。あのあたりはまだ未知だから、中心ですと言われればそうなのかもしれないと思う。

 

重心を探す上で、自分にとってという条件を捨てることはできないかもしれないが、自分が本郷のあたりに憧れたのも、中心を求めたいという思いからだったかもしれない。まだ家の周り、東京の周りの広がりを知らない頃、言わば中央という観念が新宿に結びついていた感覚を書き残しておければ満足だ。

 

 

 

 

山々の見える住宅地 〜二子玉川〜

最近街を歩くのが好きです。歩けば歩くほど面白くなってきました。

東京育ちのものとして、東京の街について考えることを残しておきたいと以前から考えていました。この度、東浩紀北田暁大による対談「東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム」を読みながら、ここの観点を切り口に自分の感覚を整理しようと思い立ちました。

 

二子玉川は、新しめの高級住宅街として有名です。渋谷から東急田園都市線に乗り、二子玉川で地下から地上に出ると眺望が開けました。ホームからの視線は中央線の高架のように看板に遮られることもなく、広大な多摩川を見渡すことができるように作られていました。

 

一方向だけの改札を出ると、駅ビルが複雑に発達しており、エリアごとにお洒落な名がつけられています。改札を出たところの空間は一続きに空中歩道となり二子玉川公園に続きます。この公園は新しく、日本庭園然とした親水空間があります(入ることは許されていない)。公園内では、駅と公園の間に立つ高層マンションが必ず視界に入ります。

 

その空間から外れるように南へ行くと、多摩川の河川敷あるいは堤に出られます。堤防の中は水の少ない多摩川と枯れ草の波が広がります。寂しくも、広い空が開放的でした。

 

堤防を離れて北へ向かうと、はじめは新しめのアパート、さらに奥には戸建ての家々が並びます。小さな小川もあり、杉並区の善福寺付近の雰囲気に近づきます。さらに坂を登り下りして、たまに眺望の開ける崖を通り過ぎます。丘の上に神社もあり、寺も見えます。アパートは見当たらず、大きな邸宅のならぶ高級住宅地であることが伺えます。そのまま等々力渓谷と呼ばれるエリアに入ります。公園内を下ると、渓流の横の遊歩道を歩くことができ、足元に何度も現れる溝から今なお湧水地帯であることがわかります。

 

渓谷沿いには幅の狭い、樹種の多様な林がありますが、その向こうにはたびたび、崖上にたたずむ住宅が見えます。どれも大型でデザインが凝っているように思われます。

 

等々力渓谷の散策エリアの終点は、東急大井町線等々力駅のそばにあり、階段を上がり北の角を曲がると個人経営系の駅前商店が見えます。大井町線は線路が住宅のそばを通り、踏切から改札、ホームまで見渡すことができる路面電車の面影のあるつくりです。商店のほかクリニックや銀行など、駅前の一般的な並びです。思い返せば二子玉川では、ショッピングモールの外側の地上部分に、道を挟んで病院や薬局が見えたのでした。駅とショッピングモール、南側の高層マンションに行く道のりでは、おそらくクリニックや薬局が目に入らない。前掲の書の3章を念頭に置いたとき、ここに、二子玉川の「共同幻想」「テーマパーク的」な性格が現れている気がします。東浩紀が挙げたように、二子玉川もそれゆえにジャスコ(※現在のイオン)的なものに対しての強さがあるような気がする。他にも、日本庭園風エリアで遊ぶ親子、公園近くのカフェでご飯を食べる赤ちゃん連れのママ友といった人々を見るにつけ、二子玉川がどこまでも地域の人向けの場所であることを感じます。訪れる人の流動性が低く、「入れ替え可能性」は高くならない。これは画一的な郊外化「ファスト風土化」には反します。また、大井町線の方はファスト風土化に強いというのも、個人の店が残っている、地元の人の買い物のための「成城石井」があるという点で納得できます。

 

渋谷方面への乗り換え駅は二子玉川でしたが、誤って等々力で降りてしまい多摩川へ向かって歩いていたら、大きな道路に差し掛かり、そういえばあまり目にしなかったコンビニや鳥貴族といったチェーン店が夕暮れの中に並んでいました。スピードを出した車が目の前を通り過ぎていくのは環状八号線で、これが「国道16号線的」と呼ばれる景観なのではないかと思う。

 

道なりにいくと無事に二子玉川公園が見えて、前を歩く一団に見覚えがありました。若いおにいちゃんといった風采の5人組であり、等々力から多摩川の方角に歩き出したときに目にしたのだった。違う道で同じところにたどりついたこと、地元の繋がりであのくらいの年頃まで連れ立っているのだろうかと頬が緩みました。

 

多摩川の堤に登ると、途中の坂から見えた富士の輪郭が、橙の空を背景にはっきりと映え、その手前に神奈川県の山々が連なって見えた。山というのはまた記号的である。23区内でここまで山の連なりが見える二子玉川、なんとも奥深い場所であった。