悲しき広告 アーレントと広告アルバイトの省察

何かを非難する内容・暗い歴史的話題を含むので、ご注意ください

 

東京にいる頃からある種の広告が嫌いだった。電車内で年中目にする、女性向けの美容の広告だ。理想を掲げるのはやめてくれ、と思っていた。まるで人を分断するように、あなたは遅れていると言う。

今は電車に乗らなくて済むようになった。たまに乗っても関西の電車はもっと牧歌的な気がする。

もしかすると自分が嫌悪したのは、実生活では話題に上らないことが、誰もが黙っている電車内でこれ幸いと提示され、公共空間が犯されているという感覚だったかもしれない。

 

少し前からウェブ上の記事のアルバイトを始めて、日々広告に出会うときに、広告を作っている人のことを考えるようになった。

上から言われて通りに作るというのは、やるのは楽だ。だが自分がやるとわかるように責任感がまるでない。何かを推薦する記事を書いても、それは自分が推薦しているのではない。と言う意識で文章を書いている。自分の文章を読む人がいることは承知しているのだが、その人の人生に関わるという意識はない。

それに気付いてから、とても恐ろしいというかやるせない。何かを宣伝する広告も、作り手の積極的な意志で作られているわけではない。当たり前なのだが、今までそれに本気で気付いていなかった。特に気分を害するような、扇動的な美容系の広告なんかは、もっと悪質な、お金儲けだけを考えている人が作っていると信じたかった。でも本当はきっと違って、それを作る人も、人の気分を害するという意識はなしに作っているのだろう。与えられた仕事をこなしているだけだ。すごくやるせなくなるし辛い。これはアーレントの言う全体主義の起源と、深刻さは違えど本質は同じだ。

 

多くの人が、何かを仕事として与えられれば、自分の価値判断を麻痺させたまま作業ができる。

これは私が広告に関して感じ他ことだが、ナチスの役人だったアイヒマンのことだと思って読み返しても、そのまま当てはまる。

 

一対一ではないから、自分の書いた文章に責任がない。そういう職種がある。自分がアルバイトで関わっているのはもっと一回性のある、満足度は主観的な分野だから、後からあの推薦文は嘘だったとは思われにくい。それでも、本当に心からの推薦を書こうとすると広告の仕事なんてやっていけない。その言葉はどのくらい本気だと自分に問い始めたら何もできない。

自分は真摯に書かれた文章を読みたいし書きたい。文章には限らないけれど。悔しいなあ。もっと私にまっすぐに生きさせてください。